王妃グレース・ケリーの生涯

モナコ王妃グレースケリーの誕生から晩年まで

グレースケリー

ハリウッド女優だったグレースケリーがモナコ王妃なるまでの経緯を紹介しています。

モナコ王妃グレースケリーの誕生

1956年4月12日。
モナコの沖合いに到着した一隻の客船は、モナコ公国のプリンセスとなる女性を運んでいました。

白い大きな帽子を目深にかぶったその女性はモナコのプリンセスとなるにふさわしく花のような美しさと気品をただえていました。
モナコの象徴として輝き、人々に慕われたプリンセス。
彼女の名前はグレース・ケリー。

グレースケリー映画女優からモナコ公妃になったグレース・ケリーの生涯とグレース・ケリーが愛したゆかりの地モナコを紹介しています。
*当サイトで紹介してる写真は、一部を除きサイト運営者がモナコで撮影しています。

本名は、グレース・パトリシア・ケリー

1929年11月12日米国フィラデルフィアで、ケリー家の3番目のこどもとして生まれました。

父は独力で成功した億万長者でオリンピックのボート競技で金メダル選手で、母はドイツ人で元モデル。
グレース・ケリーが生まれた頃のケリー家は高級住宅街に暮らす典型的な上流階級の家庭でした。

グレースの美貌は両親から受け継いだもののようです。
母はモデル出身、父も映画デビューの噂がたつほどのイケメンだったといいます。

厳格で絶対的な父母のもと、子どもたちは従順な優等生として育てられました。3人姉妹中でも真ん中のグレースは控えめで、おとなしく、一番不器用であったといわれています。

父の遺伝子を継いでスポーツ万能だった姉や兄に対し、ひとりで人形遊びをしながら空想の世界にひたることを好んだというグレースを、両親はあまり評価していなかったようです。

女優への夢に両親は反対

少女時代のグレースが夢中になったのはバレエと演劇。
10代の始めには「女優になりたい」という夢を抱き始めていました。
両親は反対しましたが、グレースが自分の意志を通し両親を説得。

そして、高校卒業と同時に、ニューヨークのアメリカン・アカデミー演劇学校へ進学しました。

モデルやCMのアルバイトをしながら演技の勉強を続けてきたグレース
長身でスリムなグレース。
ケリーは、舞台よりも映画で注目されるようになります。

ゲイリー・クーパー主演の「真昼の決闘」(1952年)に出演。
その後も映画界からのオファーが相次ぎ、その整った顔立ち、輝くブロンド、気品、孤高のスタイルから“クールビューティー”と称されました。

同時に、共演する俳優をととりこにし次々と恋に落ちる、恋多き女性でもありました。

グレースの女優としての評価を決定づけたのは、サスペンスの巨匠アルフレッド・ヒチコック監督との出会いでしょう。
ヒチコックとの最初の作品は「ダイヤルMを廻せ!」。

この作品の人妻マーゴ役に、ヒチコックは、貞淑なイメージの内側に、燃えるような官能性、情熱を秘めた女優を求めました。
グレースは、ヒチコックの理想のヒロイン像にピッタリだったのです。

次の作品「裏窓」で演じたのは、ニューヨークのファッションモデル、リザ。
ファッショナブルな着こなし、あの手この手で恋する報道カメラマンの気を引こうとするリザを、茶目っ気たっぷりに演じるグレース。
グレースはヒチコック作品に欠かせない女優となっていました。

>>次は、『グレース・ケリーの将来を暗示した作品』のできごとを見る

映画女優として

ヒチコックの3作目「泥棒成金(To Catch a Thief)」(55年)は南仏コート・ダジュールが舞台。
元宝石泥棒のジョンと、グレース扮するアメリカの令嬢フランシスを軸に繰り広げられます。

社交界を舞台に、リゾートドレス、イブニングドレスに高級ジュエリーなど華麗に着こなすグレースは、ため息が出るほどエレガントです。

それにしてもこの作品は、不気味なほどグレースの将来を暗示しています。フランシスがジョンをのせてドライブするシーンがありますが、それは地中海を見下ろす断崖の道。

▼警察の追跡を逃れて疾走するクルマをロングショットで捉えた、スリリングな貴重なシーンです!

また最後の場面でフランシスが「私、ここに住むのね。
「母も気に入るわ」と、ジョンとの結婚を匂わせます。

まさかこの後、本当に結婚し南仏に住み、さらに20年後に自動車事故で命を落とすとは、このとき誰が予想できたでしょう。

撮影中のエピソードが残っています。撮影の合間に、古い城塞に囲まれた秘密の花園のような場所をグレースは「あの庭園は誰のものなの?」と聞きました。
すると、そばにいた脚本家は「グリマルディ家のものですよ」と答えたといいます。

その場所こそ、グレースが後の半生を送ることになるモナコだったのです。

グレースは「喝采」でアカデミー賞主演女優賞を受賞、女優としての頂点を極めました。

(写真は「喝采」でアカデミー賞主演女優賞を受賞した時)
アカデミー賞主演女優賞を受賞

オスカー受賞を機にカンヌ映画祭に出席したグレースに、運命の出会いが待っていました。

▼グレース・ケリーが出演した主な作品

『真昼の決闘(High Noon)』(1952)
『モガンボ(Moganbo)』(1953)
『ダイヤルMを廻せ!(Dial M for Murder)』(1954)
『喝采(The Country Girl)』(1954)
『裏窓(Rear Window)』(1954)
『トコリの橋(Bridges at Toko-Ri)』(1955)
『泥棒成金(To Catch a Thief)』(1955)
『緑の火・エメラルド(GREEN FIRE)』(1955)
『白鳥(Swan)』(1956)
『上流社会(High Society)』(1956)

人々に愛され、親しまれたグレースケリー

1982年9月13日、山の上のラ・テュルビー村からモナコへと戻る途中、グレースが運転する車がヘアピンカーブを曲がり損ねて転落。運び込まれた病院で帰らぬ人となりました。

実際は次女ステファニー王女が運転していたとも言われましたが、訃報は瞬く間に全世界を駆け巡り、衝撃と深い悲しみを与えました。

享年52歳。あまりにも突然の、早すぎる死でした。
今は、旧市街にあるモナコ大聖堂に静かに眠っています。

グレース公妃の面影をさがして

グレースケリーフォンヴィエイユ地区の、ニースからモナコへ旅行客を運ぶヘリポートのすぐそばに、愛らしい花園があります。
花のなかでも、ことさらバラを愛した公妃を偲んで、レニエ公が造らせたバラ園です。

少女のころから花を愛し、フィラデルフィアの生家では、庭の一角に自分だけの花壇を作っていたというほど花や自然が好きだったグレース公妃。

「モナコは花のみが国境をなす国」と実感した公妃は、モナコでフラワーショーを開くことを提案。みずからもフラワーアレンジメントを楽しむようになりました。
さらには、花を通じた芸術振興のために1968年にモナコ・ガーデン・クラブを設立しました。

生涯を通じて花や自然を愛したグレース公妃が、その人生の後半に出会ったのが押し花絵でした。

押し花絵とは、花びらや葉、茎などをプレスして乾燥させ、それを台紙の上で自由にアレンジして、1枚の絵として完成させるもの。
グレース公妃は押し花絵に夢中になり、何時間もアトリエにこもり、作品作りに没頭する日が多かったといいます。

バラ園にはグレース公妃の名のバラが咲き、真ん中に公妃の像が立っています。
その像を囲むように、「レニエ」「カロリーヌ」「アルベール」「ステファニー」の名がそれぞれ冠したバラが咲いています。
生涯をかけて一番大切にし、一番愛した家族に囲まれてたたずむグレース公妃の像は、幸せそうに微笑んでいるように見えました。

結婚の翌年、グレース・ケリーは大きな幸せに包まれていました。
カロリーヌ公女が誕生したのです。

それはグレースにとって人生最大の喜びだったでしょう。
次いで1958年にアルベール公子(現モナコ公)、そして1965年にはステファニー公女を出産しました。

公務をこなすグレースケリー3人の子どもの母になったグレースは、なお世界中の人たちの注目の的であり、モナコの母親たちの憧れでした。
カロリーヌ公女がお腹にいたころ、グレースがマスコミの前に姿を現したとき、手にもっていたエルメスのバッグで大きなお腹を隠していました。

以来、そのバッグは「ケリーバッグ」と名づけられたという伝説は、あまりにも有名です。

レニエ公とグレースは子育てにとても熱心で、特にグレースは躾にも厳しかったといいます。

ヨーロッパ公室の伝統と、アメリカ流の子育てとは、価値観が衝突することもあったようです。
たとえば、従来、子どもたちには家庭教師をつけて、宮殿内で勉強をさせるのがモナコ公室の慣例でしたが、グレースは一般の子どもたち同様に学ばせたいと、私立の学校に通わせたといいます。

また、母乳で育てるキャンペーンを行なうなど、グレースは常にモナコの人々の手本であろうと勤めていました。

モナコが世界的に有名になったのは、グレース・ケリーの影響は大きなものがあります。
アメリカを始め、世界中の人々がヨーロッパの小国にすぎなかったモナコを知り、訪れるようになったからです。

モナコ公国のプリンセスとなったグレース・ケリーは、国内の公式行事を始め、数多くの公務をこなしました。(写真はレニエ公とグレースケリー王妃)

レニエ公と

特に舞踏会やパーティ、外国訪問など、華やかな社交場で彼女の魅力は発揮され、レニエ公のパートナーの役目を完璧に果たしました。

そういったグレースの活動がすべてニュースとなり、モナコのイメージが世界中に知られるようになりました。グレース・ケリーは、モナコのエレガンスの象徴となったのです。

グレースは、赤十字の総裁を務めたり、病院や保育園を設立したりするなど、社会活動も積極的に行いました。

また、モナコの文化や芸術の発展のためにグレース公妃基金を設立。ダンス・アカデミー、モナコ・ガーデン・クラブ創設、グレース公妃劇場の再建などに尽力しました。

実はプリンセスになってからも、ヒチコック監督から映画出演のオファーがあったといいます。
公妃の立場を考慮し、オファーを受けることはなかったが、大好きなバレエや映画への情熱を、心の奥に抱き続けていたであろうことは、想像に難しくありません。

ダンス・アカデミー創設やあ劇場再建は、みずからの夢を、モナコのすべての人々の夢として昇華させることで、「女優グレース・ケリー」と決別するための、決着のつけ方だったのではないでしょうか。